「愛」の反対語は、「憎しみ」ですが、本当の反対語は、 愛の不在 では、ないでしょうか。 誰かを、憎いと思っときそこには、まだその人に関心があります。それは、必ずしも望ましい人と人との温かい かかわりではないかもしれません。けれど、少なくともかかわりは、存在します。 一番恐ろしいのは かかわろうとさえしないことです。そして、相手が自分同様、喜びや悲しみを感じる人間であることを忘れ、人を物のように扱うことです。 私が朝食を片付けるところへ、花粉症のシスターが来て「昨日は鼻が詰まって、真夜中まで眠れなかった」とおっしゃいました。 そこで私は「シスターお医者様のおっしゃった通り、お薬をお飲みになったの?」と 言いました。 言ってから反省いたしました。 私は、シスターの言葉を無視したわけでもありませんし、不親切な返事もしておりません。 でも、不親切ではないけれども、親切でもなかったことに気づきました。 ある方が入院中に眠れずにいたので、お医者様に相談すると、「わかりました。では、薬の量を増やすか、薬を変えてみましょう。」と おっしゃったそうです。 その後看護婦さんにも同様に打ち明けると、「夜が長かったでしょうね、辛かったでしょうね」と言ってくれて、その言葉に自分は救われたと、私に話してくれました。それを思い出し、 なぜシスターの気持ちを受けとめて「辛かったでしょう 今朝は、眠いでしょうね。」とぬくもりのある受け答えをしなかったのかと 反省したのです。 不親切ではなくても親切さに欠ける自分に気付く。 「めんどうだから、しよう 」 渡辺 和子 引用]]>