「あなたに生かされました。あなたの分まで生きます。」
いつからだろう。
毎年7月18日、父は会社を休む。
母は美しい花を買って、二人でどこかに出かけるのだ。
どこへ行くんだと俺が尋ねても、ちょっとねとお茶を濁す。
そそくさと礼服に着替え、それはそれは不思議な1日が毎年続いていた。
そんな俺ももう高校三年生。
何となく教師になりたいなどと夢を持っていたが、家には金がない。
意地でも国公立に行けと親には言われてる。
しかし、今日も希望校への判定は「D」。
むしゃくしゃしてリビングで、父の煙草を一本拝借。
火を付けた瞬間に母が帰宅した。
最悪のタイミング……。
母は何も言わず、メモとペンを取りだして、
サラサラと何かを書いている。
「ここへ行ってきなさい」
「は?」見たら、見たこともない住所と名前。
「何で俺がこん…」
「いいから行ってきなさい!」
母のここまで取り乱した顔を見たのは後にも先にもこの時だけである。
なんだってんだよ…まぁいいか、
どうせ勉強もはかどってないし……。
そんな軽い気持で、俺は書いてある住所へ向かうため電車に乗った。
その時には、まさかこれほど重大なことを知ることになろうとは、思っても見なかったのだ
メモの名前には、前田裕子とある。
…聞いたこともない。
母とどんな関係があるのだろう。
そこは小さなアパートだった。
チャイムを鳴らすと幾つくらいだろうか、母よりもいくらか年配の女性が迎えてくれた。
「慶太君!?
大きくなったのね!」
親戚のおばさんかよ。
「前田裕子さんでしょうか、
母から訪ねるように言われた
のですが…」
「私は裕子の母親よ。
裕子も喜ぶわ。
さ、上がってちょうだい」
「お邪魔します」
「裕子、慶太君だよ」
そこには……、
仏壇と遺影があった。
微笑むその遺影の女性は、
とても可愛く優しそうだった。
「裕子、慶太君大きくなったね、良かったね」
おばさんは遺影に話しかけ続けた。
「あの……」
俺と母とこの人と裕子さん、
接点がまるで分からない。
「何から話せばいいか…」
おばさんは、そっとビデオを取り出した。
「とりあえずこれを見てちょうだいな」
それはとある日のニュース。
キャスターは話す。
7月18日夕方5時頃、
トラックの前に飛び出した子供をとっさにかばった
女子高生、前田裕子さんが意識不明の重体、
病院に運ばれ、間もなく死亡が確認されました。
どうやら裕子さんは子供をかばい亡くなったらしい。
ビデオを止めたおばさんが、
衝撃の言葉を発した。
「この子供があなたなの」
「え?!」
全身から血の気が引いた。
何も言えない俺におばさんは続けた。
「裕子は今のあなたと同い年だったわ。
保育士を目指してた。
子供が好きだったあの子のこと、
私は何も不思議に思わなかった。
あなたの両親には泣きながら、
何度も何度も頭を下げられた。
そんなあなたの両親に、私はひとつだけ約束をしてほしいと頼んだの。
あなたは当時2歳。
あなたにだけはこの事実を
隠し通してやってほしい。
娘もそう願っていると…。
だから今日あなたのお母さんから、電話があった時にはびっくりしたわ。
自暴自棄になっているあなたにすべてを話してやってほしいと言うのだから。
もちろん、あなたに恩を着せるつもりはなかった。
ただあなたがいま道に迷っているなら、きちんと話そうと思ったの。
あなたの命はあなただけのものではない。
あなたの何気なく生きる瞬間は、裕子があなたに命を捨てて授けた瞬間。
どうか真っ直ぐに生きて……」
いつぶりだろう。人に涙を見せたのは…。
毎年毎年、花を持ち頭を下げていた両親。
娘を奪われて、なお俺に心を馳せてくれたこの人。
そして見ず知らずの俺のために、
18歳の生涯を閉じた裕子さん。
たくさんの人の熱い想いが涙となり、俺の頬を伝い続けた。
「すみません、
何を話せばよいか
分かりません」
「ならお願い」
おばさんは言った。
「今、受験生よね」
「3月には素敵な報告を、おばさんに
届けてくれないかしら、
お母さんより先に」
思わず見上げたおばさんはイタズラっぽく微笑んだ。
「……はい!!」
俺はおばさんの家を後にした。
ポケットに何かある。さっきの煙草だ。
迷わずゴミ箱に捨てた。
それから俺はがむしゃらに勉強した。
叶わなかった裕子さんの分まで。
3月。…俺は走っていた。電車へと。
そしておばさんの家へと…。
「おばさん!やったよ!
合格したよ俺!」
その時見せたおばさんの笑顔は
あまりにまぶしかった。
「慶太!行くわよ!」
「あぁ!」
7月18日。
俺は20歳になっていた。
裕子さん、おばさんに会いに…。
この日は俺にとって、一番大切な日となった。
「あなたの大切な人と大切な日は?」
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